「金栗四三」とは?生涯や記録を解説!

2019年の大河ドラマの出演者が発表されましたね。オリンピックを中心に描く大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺」。この記事ではその物語の主人公の1人である「金栗四三」の生涯や記録について解説します。

目次

  1. 金栗四三とは
  2. 金栗四三の生涯
  3. 金栗四三の記録

金栗四三とは

2019年の大河ドラマ「いだてん ~東京オリムピック噺」に決定しました。

そこで、田畑政治と共に主演の1人で、中村勘九郎さんが演じる「金栗四三(かなくり しそう)

彼は、熊本県出身の1891年の8月20日生まれのマラソン選手であり、日本人初のオリンピック選手の1人である。

駅伝の始まりに尽力して、日本の「マラソンの父」と称されている。

また、毎年お正月に大きな盛り上がりをみせる箱根駅伝にも尽力していて、箱根駅伝の最優秀選手には「金栗四三杯」が送られる。

オリンピック史上最も遅いマラソン記録である54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3を記録したのは金栗四三である。

金栗四三の生涯

金栗四三の生涯について順番にご紹介します。

>

生まれ〜最初のオリンピック

金栗四三は、1891年の8月20日に熊本県玉名郡春富村(現在の和泉町)で生まれ育った。

その後、東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学、20歳の時にオリンピック選手に選ばれた。

オリンピック予選で「マラソン足袋」という足袋の底にゴムを貼ったものを履き出場した。

その結果、当時の世界記録を27分を縮める記録(2時間32分45秒 自己ベスト)でゴールした。

日本人初のオリンピック選手に短距離の三島弥彦と共にストックホルムオリンピックに出場した。

ストックホルムオリンピック

当時の世界記録を更新した金栗四三はメダルの期待が集まったが、日射病で倒れてしまった。

近くの農家に看病してもらったが、目を覚ました時には翌朝だったため、志半ばで帰国した。

過酷な移動時間や白夜による睡眠不足、食事の面でも多くの苦労が強いられた。

レース当日も迎えがなく、スタート地点まで自力で行ったり、気温が40℃を超えていたなど厳しい戦いだったという。

帰国後

アスリートとしてのピークは続いており、1916年のベルリンオリンピックは第一次世界大戦により中止となったが、その後の1920年のアントワープオリンピック、1924年のパリオリンピックに出場している。

アントワープオリンピックでは、16位、パリオリンピックでは途中棄権という形で終わっている。

その間の1917年には、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走や1920年の第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(現在の箱根駅伝)に尽力して、日本のマラソン界に大きな影響を与えた。

ストックホルムオリンピック記念式典

1967年、金栗四三はオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。

ストックホルムオリンピックでは金栗四三の棄権が伝わっていなかったため、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。

そのため、オリンピック委員会が記念式典の開催にする際に当時の記録を調べていたらこの「競技中に失踪し行方不明」に気付き、金栗四三を記念式典でゴールさせることにした。

そのため、ストックホルムオリンピックでの金栗四三のゴール記録は「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3」を記録した。

晩年

金栗四三は故郷である玉名市で晩年を過ごし、「体力、気力、努力」という言葉を残し、1983年(昭和58年)11月13日、92歳で亡くなった。

彼の功績を讃え、箱根駅伝や富士登山駅伝では、最優秀選手に送られる「金栗四三杯」という賞が作られた。

金栗四三の記録

オリンピック3大会出場

  • ストックホルムオリンピック 54年8ヶ月6日5時間32分20秒3 最下位
  • アントワープオリンピック 2時間48分45秒4 16位
  • パリオリンピック